きみらしく- ADHDと仲良くいこう

興味のままに不注意を携えて動き回る、そんなうちの子はADHD代表選手の一人です。彼を育ててるからこそ見えてきた世界、そこから感じた色んなこと、伝えていけたらと思います。

発達障害とは何なのか

そもそも、発達障害の定義はものすごい難しいものですよね。難しいというより曖昧。

いくつか定義をみてみましたが、定義としてはその表現を大きくするしかないんだろうなと思いました。

 

脳に機能障害があって、決められた項目に当てはまるなら診断しましょうか

みたいなものと勝手に理解しています。

 

実際、頭のMRIとかとって診断した人なんてほとんどいないだろうし

そういう点でも科学的な根拠としてはまだまだ未知の部分が多いような気がして

他の病気の診断とは明らかに違う。

症状を頼りに、人間が作った知能検査などの検査に沿って診断がなされる。

 

このライン、この特徴、尚且つ生活に支障をきたすようなら障害と診断する、みたいなイメージかな。

 

診断名も、専門家による研究の積み重ねにより、わかりやすく症状をグループに分けた、そういうものだと思うんです。

実際、分類の仕方も呼び名も少しずつ変わってますしね。

 

まだまだ研究が進んでいないのは、脳機能が複雑で、ひとりひとり症状も違いすぎるから。そんなところかな。

 

結局は、どれだけ支障をきたしているのかが重要なポイントになるんだと思います。

 

そして、そういう曖昧なものだからこそ

診断されても悩みは尽きない。

 

もしかしたら、診断の時、大きなショックを受けた人も多いかもしれない。

私も、我が子にADHDと診断されたときある程度の感情の動きはありましたが

そこまでのショックではなかった。

 

だけど、どこまでいっても

ADHDに対する思いには波があると感じています。

 

うまくいっているとき、つまりあまり支障がないときには

大丈夫だ!なんて思ってみたり

支障が可視化され問題が明確になったときには、ちっともポジティブに捉えられなくなったり。

特に、対人関係がからんだ時のショックは大きいような気がします。

 

それは、本人の症状に関しては慣れのようなものができてしまい、親はそんなものだと感じて対処できてくるんだと思うのですが

他者に迷惑などをかけたとき、どうしようもなく申し訳なく感じたり、不安になったり、本人を不憫に思ったりするんだと思います。

 

他の病気なら、できないことを責められることもないし、周りにスムーズに受け入れてもらえるのに

発達障害に関しては、そうではない。

 

親は、子どもをずっとみてきて

そして専門的な見解を得て、

ようやく子どもの特徴と行動を掴んでいるはずなので

そうではない周りの人々にはいくら学校の先生でも、すぐには理解できないはず。

 

なんでそんなことができないの!

 

そういう言葉がでてきてしまうのも、イライラしてしまうのも十分理解できます。

子どもたちならなおさらです。

 

だけど、

世の中の常識や、人間関係のルールも本当は人間が決めたものだから

実は曖昧なものかもしれない。

それでも、それらが一番必要なものであったりします。

 

もんちっちを育てるまで、私も世の中に何の疑問ももたず生きてきました。

 

普通!というものの価値観に、断固たる自信があったと思います。

 

だけど、完全に私の普通は変わっていって

今は正直わからなくなっています。笑

 

もんちっちを理解したいと思いながら過ごしているうちに

世の中の何が正しいのか、何がいけないのか

そのあたりに疑問さえ持つことも増えました。

 

わかっている、わかっているんだけど

 

言葉にするなら

 

人間の世界は難しいもんだなぁ!

 

という逃げ言葉にしか今はできませんが。

 

これからも、たぶん

その独特の波がやってくるはずです。

だけど、その波の超え方が

上手になってきているという実感もあります。

 

そうやって、私も成長していけてるのかもしれません。

 

私が今わかることは

もんちっちが幸せに生きるには、彼の周りもハッピーでなければいけないはず。

 

自分の子どもの視点と、周りのお友達の視点、先生の視点、それぞれの立場からちゃんと考える。

 

悶々としてしまったときは、そんなことを考えながら、

このなんともいえない曖昧なものとうまくやっていこうと試行錯誤しています。